杉二小のご紹介
学校ができたころ
1884年(明治17年)、『成田(せいでん)尋常(じんじょう)小学校』が開校しました。成田とは、成宗(なりむね)村と田端(たばた)村から一字ずつとってつけた名前です。これが、杉並第二小学校のはじまりです。
最初は、先生は一人、児童が21名の一学級で、1年生から4年生までがいっしょに勉強していました。服装は、先生も子どもたちも和服(着物)でした。校舎は草ぶき屋根で天井(てんじょう)もなく、風の強い日はほこりが落ち、雨の日には真っ暗で字も読めないほどでした。夏には蛇(へび)や蚊(か)にもなやまされました。秋や冬には霜(しも)で校庭がぬかるむので、みんながわらなどをもちより、俵(たわら)のようにあんでしきつめました。勉強する科目は、「読み書きそろばん」といい、とくに字を学ぶことにカを入れていました。えんぴつはなく、筆(毛筆)で字を書きました。墨(すみ)で真っ黒になった紙を何度もかわかし、くり返し練習しました。二週間目に、初めて白い紙に清書をすることができました。算術(さんじゅつ)・作文・体操・音楽なども勉強しました。
給食はなく、多くの人はお弁当でした。麦にヒエをまぜたものが普通で、秋はさつま芋(いも)、冬は餅(もち)を持ってきました。おかずは、梅干しやたくあんなどで、卵焼きや肉・魚などはとても食べられなかったのです。
遠足(当時は「運動会」といいました)は、 新宿の大久保のツツジ園や大宮八幡宮(はちまんぐう)などへ、行きも帰りも歩いていきました。遠足はみんなの楽しみで、このときばかりは、白いご飯でお寿司(すし)のお弁当にしたり、髪型(かみがた)や着物を変えておしゃれをしたりしました。
学校のまわりには、水がとてもきれいな川が流れていて、タナゴ・フナ・ナマズなどがたくさんとれました。学校に来る時も、山や田んぼのあぜ道を通っていたので、雨の日は大変だったようです。現在の阿佐ヶ谷までの通りにも家が一軒(けん)もなく、夜には、きつねやたぬきがあちこちの山で見られました。

明治から大正へ
大正時代になると児童数が男女80人近くになりました。トタン屋根の校舎が新しく作られました。
大正8年、中野・吉祥寺間に電車が開通し、杉並村にも高円寺・阿佐ヶ谷・西荻窪の三駅ができました。大正12年の関東大震災後には、さらに児童数がふえたので、現在の校地を村の人から借りて、「上の校舎」「下の校舎」という2つの校舎をもつ大きな学校になっていきました。今は車しか通っていない青梅街道に西武電車(後の都電)が通ったのもこのころです。
子供たちは、ふだんは、たけの短い木綿(もめん)の着物に、わら草履(ぞうり)か、ラシャ(毛織物)の鼻緒(はなお)の下駄(げた)をはいていました。式のあるときは袴(はかま)をはいていきました。勉強道具はふろしさにつつみ、こしにゆわえたり、たすきに背負ったりしていました。ノー卜のかわりに紙石盤(せきばん)を使っていました。
いくつもの戦争が続いた時代だったため、学校で歌う歌も軍歌調(ぐんかちょう)のものが多かったといいます。
子供たちの家の多くが農家だったこともあり、日頃のお弁当は麦飯(むぎめし)に梅干しだけとか、野菜の煮付けを一品だけといったものでした。焼き海苔(のり)や卵焼きは大変なごちそうでした。木登り・魚つり・騎馬戦(きばせん)をして遊びました。学校の横の善福寺川も、今よりも水がきれいで水量も多かったので、泳いだり、飲み水や洗濯などにも使ったりしていました。ただ、現在のように橋はなく、板がわたしてあるだけでした。

大正13年、校歌が作られました。だれもが歌いやすいような歌に作りました。「尾崎の丘」とあるのは杉並の中でも土地が高く作物がよくとれる土地であること、また、「緑かがやく」というのは、たくさんの木々に囲まれていることをさしています。戦争中、空襲(くうしゅう)のさなかでも飛行機から見つけにくく、安全であったというほどです。現在まで約1万6000人の人々がこの歌を歌ってきたことになります。
次の年には、校名を『杉並町立杉並第二尋常(じんじょう)小学校』とし、今の杉ニ小の名前につながっていきました。
昭和から平成へ
昭和7年には、杉並、和田堀、井荻、高井戸の4つの町が一つになり東京市杉並区になりました。学校の名前も『東京市立杉並第二尋常(じんじょう)小学校』となりました。昭和12年からは、男女が同じ組で学ぶようになりました。また、教室が少なく、午前と午後の二部学級に分かれて学習しました。冬、午後組の授業が5時近くに終わると帰りは暗くなり、提灯(ちょうちん)を付けて歩く6年生の後から、みんなでついていきました。
昭和16年には、『東京市立杉並第二国民学校』と名前を変えました。6月には『西田国民学校』ができ、157名の友だちが転校しました。
戦争がはげしくなり、男の子は手旗(てばた)信号やグライダー、女の子はなぎなたや竹やりの訓練をしました。また、学校で勉強することがあぶなくなった子供たちは、昭和19年8月に長野県に集団疎開(しゅうだんそかい)をしました。
疎開先(そかいさき)では、小麦粉のすいとん、そばがき、だんごやさつまいもなどのほかに、イナゴやタニシ、ドジョウを取り食べました。女の子は、もんペをはき防空頭巾(ぼうくうずきん)をかぶり、名前、住所、血液型を書いた名札をつけていました。つきそいの先生方といっしょに、宿泊先のお寺のお坊さんや寮母(りょうぼ)さんが、子どもたちの世話をしてくれました。

戦後、昭和22年に『東京都杉並区立杉並第二小学校』と名前を変えました。また、給食も始まりました。給食は、配給(はいきゅう)の野菜を入れた一品で、家庭にくばられたさつまいもやとうもろこしを主食として学校に持っていきました。ミルクは脱脂粉乳(だっしふんにゅう)でした。この頃、男の子はビー玉、メンコ、ベーゴマで、女の子はおはじき、お手玉などで遊びました。
昭和23年頃、児童数が約2000人の大規模校(だいきぼこう)になりました。教室がたりず、4年生以下は、二部授業をしました。昭和25年からは、パン・お汁・ミルクの完全給食がはじまりました。
その後、昭和26年に東田小学校が、昭和28年には浜田山小学校が新設され、友達が転校していきました。昭和29年には、プールができ、夏には水泳の練習をしました。
昭和35年7月からは、木造(もくぞう)校舎から、鉄筋(てっきん)の校舎への建て替えが行われました。工事で校庭が使えないときは、運動会や卒業式を、東田中学校をお借りして行いました。

昭和39年には、東京オリンピックが開催(かいさい)されました。杉並区内も、環状(かんじょう)七号線の開通、中央線の高架(こうか)化、地下鉄丸ノ内線の工事など、交通網(こうつうもう)の整備が進められました。
昭和59年には、同窓生を始め多くの方々を迎えて、創立百周年の記念式典が行われました。百周年を記念して寄贈(きぞう)された『同窓会文庫読書室(どうそうかいぶんこどくしょしつ)』では、多くの子どもたちが本に出会ってきました。今の「同窓会文庫(どうそうかいぶんこ)」のはじまりです。
平成から令和・現在へ
昭和64年の1月からは、平成の時代になりました。このころ、体育館や校舎の改修(かいしゅう)工事や耐震(たいしん)工事がすすんだり、ICT設備が整えられたりするなど、安心・充実して学べる学習環境が整えられてきました。
また、平成29年に青少年赤十字に加盟(かめい)して、善福寺川沿いの清掃や募金(ぼきん)活動など、地域や世界に貢献(こうけん)していこうと学校全体で活動に取り組みました。
コロナ禍(か)の様子
令和2年3月2日から、新型コロナウイルス感染症による休校となりました。修了式・卒業式は、時間を短縮(たんしゅく)して行われました。
4月7日に新型コロナウイルスによる緊急事態宣言(きんきゅうじたいせんげん)が発令し、4月の入学式・始業式の翌日から5月25日に解除されるまで、学校は引き続き臨時休業(りんじきゅうぎょう)となりました。再開後は、分散登校(ぶんさんとうこう)、ソーシャルディスタンス、マスク着用、手指の消毒など、感染予防対策(かんせんよぼうたいさく)をしながらの学校生活となりました。児童も先生も、教室でいっしょに学べることの喜びをあらためて知る機会となりました。
令和3年7月から9月にかけて、東京オリンピック・パラリンピックが開催(かいさい)されました。新型コロナウイルス感染症により、実に1年遅れの開催でしたが、東京での開催に、感動は大きく記憶に残るものになりました。
新校舎(しんこうしゃ)のようす
新校舎への移転作業(いてんさぎょう)のために、令和5年2月1日から、学校は休業になりました。2月13日から新校舎へ登校。とてもきれいな校舎での生活が始まりました。
3月2日の図工の日には、旧校舎の思い出ペイントを鑑賞(かんしょう)しました。また、当日は多くの地域の方々や、卒業生の方々が来校して、旧校舎での思い出にひたっていました。

